2012年夏の私へ贈る。(風 is a Doll?雑感のようなもの)

風 is a Doll?の感想として検索に引っ掛かって見に来てくださった方、ごめんなさい。先に謝っておきます。こちらは風isを通じて感じたオタクな私の過去と今とを埋めたいだけの記事となっております。ごめんなさい。
 
 
3年前、風磨君に降りるの、その先が怖いと言いながらその引力には不可抗力だ、なんて言いながら降りた私へ。
 
 
2015年夏、ふうまくん初のソロコン、風 is a Doll?が行われました。そこでは、いままで感じなかったのに四六時中ずっと感じたこと、というのがあって。それは風 is (an) Idol!ということです。あの、普通の高校生でいたいと日々言ってた風磨君が、終始アイドルしてた。それは、他の誰らしいわけでもない、既存のなにかアイドルという型に当てはまるわけではない、風磨くんが風磨くんらしくありながらきちんとアイドルだったってことで、新感覚、驚きと安堵でした。アイドルという職業と、風磨くんのアイデンティティが上手く溶け合って、ひとつになってた。あのメンバーでやれたことで、風磨くんがいつも友だちにきっと見せてるんだろう素のおもしろさや、お喋りがあって、それにアイドルとして観客を巻き込んでいって。歓声は知らず知らずのうちに「フゥ~」になってた。それは間違いなくその空気感のおかげでした。しかも一人一人がプロだから見世物としても完成度が高くて、思わず声をだしたくなる。そんなステージの空気感、感じたことなかったです。まさかあんな完成度あげてくるなんてなぁ。ごめんね、正直思ってなかったです。アイドルとしての才覚も覚悟もすべて完璧でした。ぜんぶ感じることができました。いまはすべてが愛しく仕方ない。です。
こんなに感じ入るものがあったのは3年前以来でした。3年前といえばサマリーの頃。降りた頃。これの文章を贈りたい相手である三年前のわたし、元の人がアレなわたしは、迷って悩んで怖く思いながら降りた三年前の夏でしたね。素でいたい、自分らしくいたい、わかってくれる人だけわかってくれればいい。そんなポリシーを持つ人を知っていて、それがグループとして、アイドルとしてどんな結末になったかもわかってて。悲しかったよね。あれから、全て過ぎたことで、いまはまた別ベクトルの楽しさがそれぞれにあるってわかるようになったけど、それぞれの出来事の最中は、ただた悲しかったね。時代は代わり、風磨君は、もっと賢いだろう、聡いだろう、と思いながら降りて。でも当時はそうやって思い込みたかっただけでした。端々からそういう感覚を読み取ろうと必死でしたね。その儚さがまた愛しかったりする部分は大いにありました。
 
それでも3年の間、めげそうになったことは正直何度もありました。特に、外からの圧力が怖くて。インターネットの世界では、ことあるごとにきつく言われてたりしてた。自担がそう言われるのはやはり辛いもので。だけど、反論もしきれなくて。
だからこそ、会場全てが風磨くん愛しいで染まったTDCに涙腺が緩むよ。菊池担、少なくとも私は自担に激甘で、正直そこは他担の方とはかなりギャップが大きいし、このギャップは2012年夏からどんどん広がります。だけど、2015年のTDCでは恥ずかしがることも躊躇うこともなくただただふうまくん大好きと思える、言える、そのオーラを出してもいい。発散できるというか。みなさん結構そうだったんじゃないかな?一人一人がそうだから、もうね、心地よくて。普段のコンサートだと猫可愛がりな空気が風磨君に対して満ちることってあまりなかったんだけど、少なくともTDCは最初から最後までそれに満ち満ちてた。TLには他担で入った方もたくさんいらしたけど、きっと、それも含めたあの場のみんなのことを、風磨くんの側に巻き込んでたんじゃないかなと思います。オーラスで泣きそうなふうまくんに会場そこら中からのがんばれの言葉、思い、泣いても良いよ、ってそのまま全て受け入れたい思い、とにかく、暖かさ。あんなに暖かい空間は知らないと思った。そりゃ泣くよ、私がそれ感じて泣くんだもん。
そういった、空気の暖かさを作り出すことができたのはその対象としての風磨君がいるからだし、風磨君がアイドルだからなんだなって思えました。
 
そして、全てを終えたオーラスのふうまくんの言葉。
「もうどうなってもいいと思うくらい最高でした。でも、まだまだ先があります。もっともっとすごいステージ作ります。もっともっとすごい菊池風磨になりますから、だから、一生ついてきてください。」
 
オーラス、さいごの方までいったとこで、感じはじめたのは、ここで終わったらどうしようってことでした。だけど、これですべての不安が吹き飛ばされた。最高のメンバーとやれて、ひとりでこれだけの空間作り上げられて。これ、グループに戻ったときこの風磨君で居られるのかなとか、ちょっと思ってしまった。ここが頂点にならないだろうかって。だけど、彼にはまだまだ先が見えてた。思うよりずっと大人になってたんだなぁ。ここでまたひとつ安堵と嬉しさが込み上げました。もう本当に、何も心配とか、気がかりに思わなくても、彼のファンとして彼の切る舵に従ってただ見ていればいいのだなぁと。たくさん思いを思考をこねくり回して好きだと言ってた2012年私だろうけど、もう、モンペとかじゃなくてもう、ただただ私はアイドルのファンでいればいいのだと思える日がきます。
 
それから、5日1部ステージの真ん中に立って、噛み締めるように、今の俺がないと思うと「....怖いですね」と言った風磨くんのことを書いておきたい。これにもアイドルを感じたなあ。アイドルを、というより、風磨君のアイドル自覚をとでもいうべきかなぁ。昔は、もっと、そうじゃなかった自分に思いを馳せてた風磨君だと思うから。普通の高校生でいたいって言ってた風磨君だから。失いたいとは思ってないとしても、人生の中の種々の分岐のなかで、全く別のルートがパラレル的に存在してたとしたらそれはどんな風だろうって考えるくらいはしたと思うんだ。私もたまにそういうことを、考える。現在に絶望がなかったとしても、興味本意で考える。風磨君は、そのパラレルルートの世界を選ぶことは「怖い」って言った。その世界の存在そのものを否定した。それはおそらく、ステージの真ん中でライトを浴びる今だけがあって欲しいってこと。そんなにアイドルとしてその場にいること、仲間やまわりの人に会えたこともぜんぶ含めて肯定したい今の中にいるんだと思うと胸一杯でした。
 
あ、それから、意外な曲や大好きなあの曲をふうまくんの歌声で聴くことになるよ。それは、三年前のあなたにはなかなかハードな出来事だと思うけど、今の私にとっては嬉しい偶然で、楽しく聴けました。現場で聴きたかったのに聴けなかった大事な曲、それを聴けます。それを選んだ風磨君と曲の趣味合うじゃん~って視点でも嬉しいし、楽しそうに歌ってるのみるとこっちまで楽しくなる。本当は私が一番そうしてたくせに、一番人にされたくないのが重ねることだったから、こうやって自分から重ねてくるのを聴くのとか、それを聴いた人の感想とかみるのも初めは正直怖くて。だけど、Dモで笑顔綻びながら樹と絡んでたのとかみたら、好きで選んでくれたんだなってわかったから、全部吹っ切れるようになりました。意外と全部、何も重ねない私だったし、ふうまくんはちゃんとふうまくんだった。
rougeも大人なrougeが聴けるよ。サマリーのrougeと、印象が違いすぎてビックリすると思います。十七歳には十七歳のrougeがあったように、二十歳には二十歳のrougeがありました。待ってるといいことあるもんだよ。
 
とにかく、3年前怖いといいながら降りたあなたにもう何も怖くないよ、大丈夫だよって言ってあげたいんです。その階段は手摺を支えに降りなくても、三段とばしで駆け降りてもいいんだよって。だけど、今こう言えるのはそれ相応の年月が経ったからで、お互い大人に成った故なんだろうなとも思う。三年待つし、その間にいろんなことがあるけど、それでも三年後、また最高の夏が来る。セクゾン担としてはまだまだ思うところは大きいし不安も怒りもあるけれど、菊池担としては最高の夏が来るから。菊池くんはちゃんとアイドルだから、他の誰でもない菊池くんらしいやりかたで、アイドルとしてステージにたってるから。うだうだ言ってないでとにかくさっさと降りて、サマリーめっちゃ入るといいよ。 
 
 
2015年夏 より